先日、保育園に通うお子さんがいるというおかあさんから、読んでトイレトレーニングになる絵本はないかと聞かれました。
その場で1冊(動物のお友達と一緒におしっこする)紹介した後、取り寄せなどで後日お渡しすることにしました。
本がやってきて、ふむふむと見ていると、館長から
「こういうふうに絵本や読み聞かせを使って、何かをしつけたり、教訓めいたことを期待するというのはよくない、と私は言われた」と言われました。
「絵本が嫌いになる」というのです。
読み聞かせして何かを見に付けようとさせると、条件反射的に、絵本の時間が楽しくなくなる。
なるほどそれも一理ありますね。確かに、親がそんなふうに絵本を手段として使うのがわかったら、次に、絵本を読み聞かせた時、「いったいなんの裏があるのだ」と、警戒するのかも・・・。
そう考えると「時計の本」とか「数の絵本」とか、そういうのもかしら?なんて。
子供をいい大学に入れたいなどという親向けの本はたくさんあり、とても人気です。大人は手段とわかって本を読んでいても、子供は目的か手段かの区別をつけられないので、たしかに注意が必要です。
しかしそう考えると、たとえば、子供向けの戦争本も同じ性格を持っているなとか、思うわけです。本を通して、自分たちの主張を、わかりやすく、わからないうちに植えつけるという意味では、その手段を行使するのが、親ではなく著者になったということになりませんか。
すると、すべて1~8門の一般書は、読者のためというよりは、著者の主張をひろめたいという著者ファーストではないかと思えてくるわけです。
先日、「ケーキの切れない非行少年」の本を読みました。問題点の言いっ放しではなく、「コグトレ」を行と良いという解決策をかいており、良い本だと思いました。
が、この「コグトレ」に関する著書は、この著者ばかりが書いており=著者はコグトレを広めたいために著書を書いたのか?と疑念が起きました。
本は手段なのか、それ自体が目的なのか、簡単に切り分けられない話です。